知識を学び、勉強していくことに、本当に意味はあるのでしょうか。
たとえば、「なんで将来に役に立たない勉強しているの?」と疑問を持っている中学生に対して、納得させることができる回答を用意することができますでしょうか?
ちなみに、勉強すること自体を手段として使うような「将来の選択肢を広げるため」といった間接的な回答は無しというルールにして考えてみてください。
なぜ「勉強した知識」は、そのままの意味で役に立つのでしょうか?
少し考えて自分なりの答えを用意してから、続きに目を通してみて下さい。
思考と知識
突然ですが、「思考とは言語そのものである」ということをご存知でしょうか?是非、試して頂ければと思うのですが、頭の中で言語を使わずして「思考」をしてみて下さい。
・・・たぶん、無理ですよね。
さてさて、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。
そもそも「言語」とは一体何なのでしょうか?
私は、言語とは「経験」や「知識」を表すための道具だと考えています。
極論を言ってしまえば、「経験や知識が何も無い人間は言語を必要としない」ということです。
伝えることも、伝えたいことも何も無いのですから。
同時に、言語を使わないということは「思考ができない」ということです。
ということは、何の「知識」も「経験」も無い人間には、「言語」を使うことが無く、つまりは「思考ができない」ということになります。
まぁ「そんな非現実的な状況を考えることに意味があるのか?」と思われてしまったかもしれませんが、極端に考えてみることで本質に迫ることができることは多いため、あえて私はそういう極端な状況を考えることがあります。
で、本題に戻りましょう。
この事例からわかることは、人間の思考量とは、
「思考量 = 知識量 + 経験量」
ということです。
というよりむしろ、知識量や経験量を幅広く持てば持つほど、その人間が「思考できる領域」がどんどんと大きく広がっていくということです。
知識と思考と経験
「あの人ってなんであんなに成長スピードが速いの?」と感じた経験は、これまでの人生の中で一度や二度はあるでしょう。なぜ、そういった人は「成長度合い」が速いのでしょうか?
逆に、「成長度合い」が遅いと感じる人はなぜ遅いのでしょうか?
まず間違いなく言えることは、
10のことから100を学んでいるか
10のことから1を学んでいるか
この違いにあるということです。
もっと言えば、その「違いの小さな積み重ね」が生んだ「大きな違い」です。
ではなぜ、10のことから100を学べる人と、10のことから1しか学べない人に分かれてしまうのでしょうか。
ここが大きな問題ですね。
その違いを生むものこそが「知識の差」である、というのが私の考え方です。
たとえば、例として「レストランにご飯を食べに行った」という簡単な状況を考えてみましょう。
一般的な人であれば、「ここの店はおいしかった」「サービスが良かった」・・・このような「思考」や「経験」をすることができると思います。
しかし、たとえば自分が「マーケティングの知識」を持っているとすれば、そういった思考や経験以外にも、たとえば「この店はどこで利益を出しているのだろうか」「どんなマーケティングで集客をしているのか」・・・そういった視点でそのレストランを観察することもできるわけです。
要するに、知識がある人間は「一般的な視点」以外の視点を持って「同じもの」を「別のもの」のようにも捉えることができるということです。
「別の視点」があれば「別の思考」ができるわけですから、そのまま「別の経験」ができるという言い方もできるかもしれません。
この「視点の数の違い」こそが、「10から100を学べる人間」と「10から1しか学べない人間」の違いだということです。
補足、
少し最後に話を複雑にしてしまうかもしれませんが、思考量が「知識量と経験量」に比例するのと同じように、知識量は「経験量と思考量」に比例して、経験量は「思考量と知識量」に比例していくのではないか、と考えています。
鶏が先か卵が先か、という話ではありませんが、その最初のタネとして「知識」を増やす方が効率が良いと思うわけです。
この意味に気付くと、きっと時間が経てば経つほどに、ライバルとの差が指数関数的に大きくなっていきますよ。